青柳新太郎随筆集

【紙魚の独言・しみのひとりごと】

 おい、若い衆、あんた、不惑四十になるかならぬかの歳じゃろう。ええっ。その割にはおぐしが薄いなぁ。なんかご苦労でもされたのかね。それとも副作用の強い薬の飲みすぎかな。まあ、そんなこたぁどうでもいいわ。禿には福音ともいえる耳よりな話があるんじゃが聞いてくれるかね。

俺か。おりゃぁな。『□○書房・ほうえんしょぼう』の本棚に巣くう紙魚じゃよ。

名前か。紙魚の老い耄れに名前なんぞは不要なんじゃが、『大言海』の裏表紙に棲んでおるゆえ、仲間の紙魚諸君からは「大言海の五郎」と呼ばれておるんじゃ。

なっ。なにぃっ。『大言海・だいげんかい』を知らないってか。『大言海』とは、かの大槻文彦文学博士が著した国語辞書のことじゃないか。

ええっ。なんだって、少し耳が遠いんでな。そりゃぁ紙魚だって寄る年波には克てんのじゃよ。

ええっ。なっ。なにぃ。紙魚の耄碌爺風情に人間様の言葉が喋れる訳がねぇって。じょ。冗談いっちゃぁいけねぇよ。こちとらぁ大言海の五郎ってぇ二つ名ぁ背負った紙魚でぇ。そこいら辺にのたくってるちんけな蟲たぁちぃっとばかっし出来が違うんでいっ。

この編の主人公は、青柳新太郎の書斎「□○書房」に巣くう紙魚の長老で「大言海の五郎」と呼ばれている。

負けず嫌いで、偏屈で、嘴ばっかりが変に達者で、空威勢のよい年寄りである。だが、一寸した話を聞いただけでも、ただの耄碌爺でないことは、賢明な読者の皆さんにはお判りになるだろう。

今回は、この老人ならぬ老紙魚が、半生を費やして舐めまわした、和漢の書籍の中から、「知らずとも全く困らぬが、知っておれば猶一層困らぬ」という、一風変わった話を紹介してみたい。

早速じゃが、読者の諸兄諸姉は、もちろん遊郭は御存じだな。然様、江戸で吉原、京都で島原、大阪では新町、長崎では丸山、駿府では二丁町が有名な遊郭だったな。古くは、東海道は手越(静岡市手越)の宿の遊女なども有名だったがね。

昔は売春が公許されていたんでな、各地に遊郭があったんだよ。それなのに、あの菅原通済とかいう、お節介な爺さんが、自分の一物が役立たずになったからといって、三悪追放とかいって騒ぎまくってな、若い衆には何の相談もなしに『売春禁止法』なる法律を制定させたんだよ。

自分が若い頃には、散々やりちらかしたくせに、まったく身勝手の強い爺さんだった。まあ、この御仁は天神さんとして親しまれておる菅原道真公三十六代の遠孫で、鉄道業界から土建業界をも支配する黒幕として君臨した人物でな、なかなかの大物だったんじゃよ。

なにっ。禿に効く秘薬とやらを早く教えろだと。慌てなさんな。焦るでない。慌てる乞食は貰いが少ないと、かの俚諺にも云うではないか。

ところで禿はいまさら説明しなくても解かるな。そう。頭の毛が抜けて無くなることだな。つるっ禿・里芋頭・河童禿、他にも色々な禿げ方があるぞ。そうだ、禿頭病という厄介な病気もあったっけな。

古来、中国では髪の毛のことを「血餘・けつよ」という。何といったかな。養毛剤だったか発毛剤だったか、とんと忘れてしまったが、こんな文句の宣伝文句があったな。

毛髪は、有り余る血液から生まれるのであり、豊潤な血流の証明であると考えられておった。確かこんな文句が続いていたような記憶があるんじゃがな。

昔の中国では髪の毛を血液の余りと考えた訳だな。中国といえば漢字発祥の国だが、毛髪に関係する文字も仰山あるぞ。

「髪」の音はハツで、髪の毛の意味だが、一寸の百分の一を表す長さの単位としても使うんだよ。間一髪の髪はこの意味だ。

「髭」の音はシで、口ひげの意味だ。

「髟」の音はヒョウで、長いかみの毛の意味。

「髢」の音はテイで、入れ髪、或いは添え髪のこと。入れ髪では解からないって。それでは「かもじ」ではどうかな。

「髦」はボウで、垂れ髪のこと。

「髥」はゼンで、頬ひげのこと。

「髫」はチョウで、うない髪のこと。

「髱」はホウで、「たぼ」のこと。

「髷」はキョクで、縮れ毛のこと。日本では「まげ」にあてる。

「髻」はケイで、「たぶさ」或いは「もとどり」の意味。キツと発音すると、竈神の意味もある。

「鬆」はショウで、髪が乱れるの意味だが、ゆるい、しまりがない、の意味にも使う。骨粗鬆症(こつそしょうしょう)などというのがその用例だな。

「鬘」はバン、またはマンと発音し、髪かざりのこと。

「鬚」はシュ、またはスと発音し、顎ひげのこと。

「鬟」はカンで、まるく束ねた髪のこと。

「鬢」はヒンまたはビンで、びん即ち耳のそばの髪の毛のことだ。

「鬛」はリョウで、これまた顎ひげのこと。

この他にも「髣髴」という熟語があるな。ホウフツと発音するが「彷彿」と同音同義で、よく似ているさま、ありありと思い浮ぶさま、などの意味があるな。

勿論、この外にも毛髪に関する漢字はあるんだが、なんせ字画の多い字ばかりなんで、記憶能力にも限界があるんじゃよ。

実のところ、青柳の爺さんの知合いにも、禿げた人や髪の毛が極端に薄い人がおってな、禿とても決して他人事ではないと、かねがね心配しておるんだよ。

ええっ。何っ。青柳の爺さんはどうかって。あの爺さんは、下半身の方はさっぱり駄目だが、大した苦労がない所為か、髪の毛だけはたっぷりあるし、いまだに黒々としてるんだよ。ただし、少し癖毛だがね。

何っ。発毛の秘薬っ。ええっ。変に勿体をつけるなって。勿体なんかちっともつけちゃあいないよ。けれども話にゃぁ筋道ってぇものがあるでしょう。

そうそう急くな。慌てなさんな。話の舞台は、花のお江戸の吉原だ。そうだ、吉原遊郭だ。遊郭というのは女郎屋がわんさと軒を並べている歓楽街ですよ。

女郎屋ってなにだって。ちょっと、若い衆。いいかげんにしなさいよ。さっきから話がちっとも前に進まないじゃぁないか。女郎屋ってのは、お金を取って■■■■(いいこと)をさせる商売屋ですよ。■■■■じゃぁ解からないって。ちょっと、お前さん、とっとと家へ帰って、お袋さんにでも教えてもらいなさい。

そこでだ。話は再び元へ戻るが、大体が漢字の「商」という字の起源からして、股間の穴の形、つまりは女陰を意味するという説もあるぐらいだ。

従って、商売の「商・あきなう」の字は、本来は、大声で呼び込むことを意味する「唱」の字を充てるべきものらしい。

唱えて売る。これが商売の原義だとすれば、祭礼・縁日の露店で香具師のお兄さんが、威勢のよい口上を並べて物を売る、所謂「啖呵売・たんかばい」が、商売と呼ぶのに最も相応しいと、俺は思うんじゃが如何なもんかな。

あゝ。若い衆。ちょっと待って。いいことを思いついた。そこにほれ、丁度いいお師匠さんがおいでになる。秣場(まぐさば)さんにご指南を仰ぎなさい。なんてったって秣場さんは百戦錬磨の豪傑ですからね。

ところで吽公(うんこう)さんは何人斬りでしたっけ。しかし、斬るというのもなんだかおかしな表現だな。得物は男子の一物なんだから、突くとか刺すとかいうべきじゃあないんかしら。そんなこたあ此の際どうでもいいや。どうもいかんな悪い癖じゃ。

遊郭も江戸の吉原ともなれば、女郎の数も並ではないぞ。だが、人数が多ければ多いほどいるのが、有るべき処に毛の無い妓(こ)だ。そうだ。俗に「土器・かわらけ」ともいうが、当今では「パイパン」などともいうそうな。パイパンとは白板のことで麻雀牌の一つだな。

そうだ、若い衆。白・發・中(ハク・ハツ・チュン)で大三元というやつじゃ。

有り過ぎても困るが、無くても困るのが毛だ。何っ。今度はなんだ。そう。そうだよ。無くても困るのが陰毛だ。■■■■(だいじなところ)の縮れ毛だよ。

『万葉集』の一首に「凡有者左毛右毛将為乎恐跡 振痛袖可忍而有香聞」という歌があってな、天平二年(730年)太宰帥大伴氏に、児島という遊行女婦が贈った歌として載っておるんじゃ。

漢字の羅列だから鹿爪らしいが、これは万葉仮名といって、表音文字と思って間違いないな。解かりやすく片仮名書きすると「オホナラバ、カモカモセンヲカシコミト、フリイタキソデヲ、シノビテアルカモ」となるんだね。

これを更に読下文に直すと「凡ならばかもかも為むを恐みと振り痛き袖を忍びてあるかも」となるようだな。

この『万葉集』九六五の一首を、普通は「貴方が、九州の大宰府へ行かれるというので、一緒に連れていってよと訴えたが、連れては行けぬと諭された。だから、私は袖を振るのをも我慢して、じっと忍んで見送っておりますよ」といった程度に、当たり障りなく訳しているんだな。

『古語辞典』などにも、「左毛右毛」を「左にしたり右にしたり・・・ああしたりこうしたりして、ほしい儘にいろんな事をする」といったふうに逃げておるんだよ。

だがね。人間の体毛が左と右に分かれている場所は、ただの一ヶ所だけなんだから、本当の歌意は、もっともっと肉体的にエロチックに解釈するべきだという説もあるんだよ。なにっ。そうだもっと助平にじゃ。

江戸時代の人は、これを「チンチンカモカモ」などという言葉にして結構頻繁に使っていたようなんだな。例えば「別嬪じゃぁねえか、かもって、かもかもしたいじゃぁありやせんか」とか、「締め切った小部屋で、ちんちんかもかもしてる最中に、とんだ邪魔が入りゃあがって」などといった具合に使っておるんだな。

だからさ。実は『万葉集』のマンが曲者でな。万葉時代の女性は、極めておおらかに性を謳いあげておったという訳さ。おおらかにね。

何っ。煩いねえ。お前さんは。ほら、だから話を途中で忘れてしまうじゃあないか。ちょびちょびしないで、おとなしく聞いていなさい。

ええっと。さっき何処まで話したっけ。あゝそうだったな。パイパンのところまでね。カワラケすなわちパイパンじゃったな。

でね。有るべき処に毛がないと、もちろん女郎も不憫だが、女郎を抱えた楼主も困るんだよ。

何故かって。毛のない妓はどうしても客に嫌われることが多い。お客が寄らない。抱えている女郎の稼ぎが悪ければ楼主が儲からない。損をするのは誰でも嫌だから、楼主も知恵を絞るという訳さ。

そこでだ、何とかしてカワラケの妓に毛を生やしてやろうと、考えだされた妙法が、なんと蚕の餌にする桑の葉の利用だったという訳さ。

蚕のことは知っているかな。然様、蓑虫と同じ蛾の仲間だ。鱗翅目蛾亜目カイコガ科に属する昆虫ですな。カイコは「飼い蚕」という意味で、クワゴの家養変種だとされておる。従って、家蚕(かさん)ともいうな。

カイコガの幼虫が所謂、カイコで、飼育して繭から絹糸を得るわけだ。繭は一本に繋がった長い糸で出来ておるんじゃよ。長い糸ね。

卵から孵った直後のカイコは、多毛で黒く、これを毛蚕(けご)という。いいですか。カイコの毛虫は毛蚕ですぞ。毛蚕。多毛で黒い。いいな。

毛蚕は成長すると、やがて脱皮して、白色で斑紋のある幼虫に姿を変える。毛蚕から数えて四回の脱皮を重ね、蛹(さなぎ)になる前の幼虫は熟蚕(じゅくご)と呼ばれる。熟蚕だ。

熟蚕の体色は、やや透明で、なおも桑の葉を食み続ける。そして暫くすると、美しい糸を吐いて我が身を包み、繭を作るのじゃよ。

繭の中で蛹化(ようか)したカイコは、やがて成虫と姿を変えますな。これを完全変態といいますぞ。完全変態と。何っ。お前さんは、ただの変態じゃあないか。

カイコの蛹の身体の中にはマルキピーシ管という器官がありましてな、これを取り出して見ると真っ黄色をしておるんじゃ。

解剖用のメスで、これを切って中を見ると、真っ黄色な物質が詰まっておって、これを顕微鏡で覗いて見ると、美しい黄色い結晶が見えるんじゃよ。

これが何という物質の結晶か想像がつくかな。解からんじゃろう。

実は、これはビタミンB2でしてな、ビタミンB2が純粋に濃縮して結晶しておるんじゃよ。そこで皆さんに考えて欲しいんだがね、一体全体このビタミンB2は何処から来たものかっていうことをさ。

何っ。解からないって。お前さんも盆が暗いねえ。さっきから一々煩いことを言っておるが、俺の話を全然聞いちゃあおらんじゃないか。

蚕は卵から孵ったばかりの毛蚕のときから、桑の葉っぱしか食っちゃあおらんだろうに。してみればビタミンB2の源泉は、桑の葉っぱにあるとしか考えられんじゃろう。

そこでだ、今度は桑のことについて少しばかり研究してみようという訳だ。いらぬ心配をするな。万事は俺に任せておけ。

先ず、クワの植物分類学上の位置についてだ。位置について、ヨーイドンではないぞ。おいっ。若いのっ。他人の話を聞きながら欠伸(あくび)をするなっ。失礼じゃあないか。ええっ。

さてっと。ここにおいでの皆さんは、界・門・綱・目・科・属・種という分類の方法をご存知かな。かい・もん・こう・もく・か・ぞく・しゅ。おや、ご存知ない。

なっ。何っ。臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前だとう。そりゃあ忍術の呪文じゃないか。お前さん一体どこでその「九字印契・くじいんけい」を覚えなすったね。何っ。陰茎じゃない印契だ。護身の秘法として九字を切るだろう。あれだよ。驚いたなあ俺も。だが、残念ながら全く関係ないねえ。

例えばじゃ。あの動物園にいるライオンじゃ。ライオンを例にとってみるとこうなるな。動物界・脊椎動物門・哺乳綱・食肉目・ネコ科・ヒョウ属のライオンということになる。

それでは、問題のクワはどうかな。植物界・顕花植物門・被子植物亜門・双子葉植物綱・離弁花亜綱・イラクサ目・クワ科・クワ属、のクワということになるな。

ところがな、世の中そうそう簡単には済まされないんだよ。クワ属のクワにはな、所謂、マグワのほかにヤマグワ・ケグワ・シマグワ・ハチジョウグワ・ロソウなどの種類があるのでな。山桑・毛桑・島桑・八丈桑・魯桑じゃ。細かい分布のことなどは省略するが、これらの桑はすべて蚕の餌になると考えてよろしい。

桑はな、元々が中国原産の落葉の低木または高木でな、乳液があるんじゃよ。乳液だ。解かるな。日本でも蚕の飼料作物として、古くから栽培されておる。我が国へ養蚕技術が伝播したのも古いことなのでな。

中央アジアあたりでは、街路樹としても広く利用されていてな、その椹果(じんか)は重要な食料となっておるんじゃ。椹果じゃ。すなわち桑の実のことだな。

地中海沿岸地方からインドにかけては、食用にするための品種を栽培しているとも聞いたことがある。熟れた桑の実は多汁質で美味いもんだぞ。何っ。多汁質とはジューシーなということだ。

樹幹の材はやや堅いが、強度があって紋理や色沢が優美で且つ工作し易いので、床柱、床板、家具、指物の材料として賞用されておる。

春に採った根皮を桑白皮(ソウハクヒ)といい、消炎・利尿・鎮咳・去痰などの目的で漢方方剤(かんぽうほうざい)に配合される。

葉は桑葉(ソウヨウ)と呼んで、中国では駆風薬に使われる。果実は桑椹(ソウジン)と呼び強壮薬にされる。樹皮は酒に浸して桑酒を作る。また、樹皮は製紙原料にもする。

駆風薬とはなんぞや。腸管内に集積するガスを排泄させる作用のある薬剤、と辞書にあるな。屁だ。いや、屁になる前の濃縮ガスかな。

どうだ。解かったかい。根っこ・樹幹・樹皮・葉っぱ・果実そして街路樹を兼ねた果樹としての利用価値、そして蚕の唯一の飼料植物。これじゃあ、この次に桑の樹を見たときには思わず伏し拝みたくなるだろうよ。

さてさてと、ぼちぼち行っても田は濁るか。御託を並べるのはこのくらいにしてそろそろ結論に入りますか。何っ。前置きがくどすぎるって。怒るな。お前さんのように、一々頭の鉢から湯気を立てていると、ますます髪の毛が抜け落ちるぞ。ああ、桑原くわばらだ。

桑の葉を利用したカワラケの治療法というのはだね、実はいたって簡単なことなんだ。だがね、だがしかし、この方法は、江戸の吉原で、大昔からずっと、遊郭が廃止になるまで続けられてきたというんだ。

先ず、桑の葉をよく揉んで軟らかくして、青い葉の液が出るようになったのを局部に当てる。これを根気よく続けていると発毛してくるということだ。

この毛生えの妙法が■■■■の本場というか、専門家とでもいうのか、江戸は吉原遊郭で、二百数十年ものあいだ連綿として施されてきたということは、余っ程のこと効力だあったという何よりの証(あかし)じゃあなかろうか。

俺の話はこれでお終いだ。どれ、帰って寝るとでもするか。

何っ。桑の葉の食い方だとう。おい、お兄さん、嬉しいことを聞いてくれるねえ。桑の葉の食し方ね。色々とありますよ。色々とね。

先ず、一番美味しく、しかも手早く料理できるのは、桑の若葉を空揚げにする方法ですな。若葉ですよ。若葉。カラッと揚げて貰いたいもんだね。カラッとね。風流ですな。実に風流な桑の葉の食し方だ。

次にか。お次の献立は天麩羅だ。何だって。空揚げも天麩羅も大して変わらんじゃあないかって。馬鹿をいうな。天麩羅は天麩羅専門店もある立派な料理の方式だ。

薄く衣をつけて、上等の油で揚げた桑の葉の天麩羅。細く刻んだ桑の葉と桜海老の掻揚げ。乙(おつ)ですな。実に乙な桑の葉の食し方だ。話しているだけで涎が垂れそうだ。

何っ。桑の葉の天麩羅はおかしい言い方だって。実はそうなんだよ。天麩羅の本義は魚貝の身に衣をつけて揚げた物のことで、野菜の天麩羅というのは蕎麦粉の饂飩というのに等しいんだよ。しかし、最近では野菜の天麩羅という言い方をしてるんだよな。

硬い葉っぱは、ジューサーにかけて青汁にする。布巾で絞って滓を漉して、蜂蜜などを加え野菜ジュースの要領で飲用されては如何かな。ただし、味の方は保証のかぎりではありませんぞ。

最後に一つ、俺の口から申し添えておこう。この一文を読んで、どうしても桑の葉の天麩羅を食してみたくなった諸君は、遠慮をせずに、秣場さんに相談してみなさい。

秣場さんは『桑蒿倶楽部』の会員だから案外簡単にお世話してくださると思いますよ。では、御免なさいよ。

完。

 

 

「鉄砲虫・てっぽうむし」  

 

 鉄砲虫とは髪切虫の幼虫のことであるが、本題に入る前に少し私の思い出話にお付き合いいただきたい。

 私が生まれ育ったところは静岡県安倍郡美和村大字内牧字門村という山間の戸数九戸の小さな集落である。私が小学生の頃に静岡市に編入されて現在では静岡市葵区内牧となっている。

 低い山一つ越えたところがお茶で有名な足久保で、名僧聖一国師円爾弁円が宋から持ち帰った茶の種子を播いた処として知られている。「足久保茶」は徳川家康にも献上された由緒を誇り、所謂「本山茶」の主流となっている。

 私の生家も製茶で生計を維持していたので子供のころから茶畑の施肥や消毒、茶摘、製茶などをよく手伝ったものである。当時は今よりお茶の需要が多かったとみえて一番茶から二番茶、三番茶、四番茶、秋冬番茶と年に五回も製茶をしていた。秋冬番茶を刈取るのは十月頃であったから山の畑の柿が食べられた。

 製茶の方法には手揉み、釜煎りなどのやり方もあるが、普通は製茶機械で一連の工程を行う。先ず、生葉を高熱の蒸気で蒸す。次に葉打ち、粗揉を行い、更に揉捻、中揉、精揉、乾燥といった工程を経て荒茶が出来る。製茶は生葉中の水分を取り除くことが主な目的であるから、ほとんどの工程で熱源を必要とする。現在では重油バーナーなどが多く使用されているようであるが、私が手伝っていた頃はボイラーでは石炭や薪を焚き、精揉機や乾燥機では木炭を燃料としていた。

 昭和三〇年代までは製茶に限らず、一般家庭でも木炭を燃料に使っていたので、炭焼きが盛んに行われていた。私の両親も茶業が終わった冬場には炭焼きに専念していた。炭は冬場の貴重な現金収入にもなったし、夏場の製茶の燃料として必要不可欠だったのである。

 父は山奥の雑木林を一山幾らで買って山裾の水の便の良い場所に炭焼き窯を築くのである。その一部始終を手伝っているから炭焼き窯の築造方法も炭焼きの方法もほぼ正確に覚えているが、ここでは割愛することにしたい。

 雑木林には栗、山桜、コナラ、椎、樫、クヌギ、リョウブ、ヤマガキなど色々な樹種が生えている。それらを全て伐採すると枝を払って長さを切り揃えて集材する。

この際、小枝や炭に焼けない細い幹は静岡方言でいう「もや」つまり焚き木として利用するために長さを揃えて束ねる。

 炭の原木や「もや」を束ねるのには専ら藤蔓や葛の蔓を利用した。運搬には多く「でんしん」を利用した。「でんしん」とは田舎の呼び名で簡易な索道のことである。山の斜面へ立ち木などを利用して番線やワイヤーを一本だけ張って滑車に吊るした荷物を滑らせて送るのである。

 原木は樹種も太さも雑多であるが規格以上に太いものは斧や楔を用いて二つ割乃至四つ割りにする。炭焼きは原木を乾留することによって炭化するのであるから太さもある程度はそろえる必要がある。

 原木の中に瘤のあるものがしばしばある。クリ、ナラ、クヌギ、シイなどブナ科に属する樹木の比較的太い幹が多い。こうした瘤はシロシジカミキリ(白筋髪切)の幼虫が侵入した痕であることが多く、割ると中から大きな髪切虫やその幼虫が出てくるのである。

 シロスジカミキリは体長約五センチ、日本に生息が確認されている約九〇〇種類ほどのカミキリムシの中で最大である。触角は体長よりも更に長いからカブト虫やクワガタ虫にも遜色のない大きさであり、しかも動くときにはギィギィっと音を立てるのである。

 幼虫も成育したものは成虫と同じく体長五センチくらいで茶褐色の口の部分を除き全身白乳色をしている。丁度カブト虫の幼虫を細長くしたような感じと思ってもらえればイメージが湧くだろう。

 オーストラリア原住民アボリジニの人たちがウィッチティ・グラブという蛾の幼虫を好んで食べることはよく知られている。ニューギニアでは現地の人たちがウォレスシロスジカミキリの幼虫を好んで食べるために種の絶滅が危惧されている。他の民族でも昆虫やその幼虫を食べることは普通に行われている。私も幼い頃から蜂の幼虫などを好んで食べてきた。クロスズメバチの幼虫の炊き込みご飯などは田舎料理の中でも美味い部類に属する。

 さて、前置きが長くなったが、鉄砲虫つまりシロスジカミキリの幼虫の食べ方はそのままこんがりと焼いて食することになる。

 炭焼き窯の焚き口は間断なく燃料の薪を焚いているから高温である。焚き口の周りには石を使ってあるのだが、その石の上に物を置くと何でも加減よく焼けるのである。サツマイモなども手ごろな厚さに切って貼りつけて置くと実に美味しく焼けた。鉄砲虫もたちまちにして一丁あがりになるのだが、熱で膨らんで伸びるので砂糖を塗ってない花林糖のような形状になる。

 焼きあがった鉄砲虫の味を文章で表現するのはちょっと難しい。「あれ」に似た味だという「あれ」に心当たりがないのである。読者の方でアシナガバチの幼虫を食べたことがあるとすれば「あれ」に近いと言えるかもしれない。とろっとした舌触りと仄かな甘さである。昆虫にありがちな変な臭いなどは全く無い。蜂の子、孫太郎虫、蝗など食べられる昆虫は色々あるが鉄砲虫が一番美味いと私は思う。

 鉄砲虫の仄かな甘さの元は、昆虫が氷点下の冬を越すときに体液を氷結させないために具えているグリセリン(糖質アルコール)であることが知られている。勿論、子供の頃の私にそんな知識があろうはずもなく、寝小便に効くからなどと言われて親から無理矢理に食わされたのがことの始まりである。

 後年、安倍川の支流、藁科川の堤防で盛んにイタドリの根茎を掘り取っている男に出合った。訳を訊ねるとイタドリの根茎の中にいる鉄砲虫を探しているとのことであった。イタドリの茎にはゴマダラカミキリが寄生していることがよくある。その男は集めた鉄砲虫を下手物食いの店に卸して金に換えているような口ぶりであった。取り留めの無い話に終始したが今回はこれでお仕舞いにする。

◆ 子を焼かれて髪切虫は泣いたのか   白兎

 

 

 

「団栗・どんぐり」

 

 今回は縄文食の続きです。

前回、シイの実のところで縄文時代の主食はシイの実やドングリなどの堅果類だったと述べた。

これまでに判っている考古学の成果として、遺跡などから出土して確認されている木の実などは約六〇種類に及ぶ。

その中で圧倒的に多いのがドングリやクリなどの堅果類である。

そして注目すべきは、これらの実を収穫するために集落の周辺に意識的に栽培されていた節があるということである。

青森県の三内丸山遺跡などの発掘から縄文時代においても人口の密集した集落があったことがわかった。

これらの集落において安定した食料を確保するために縄文人はどうしたのか。

集落周辺に作物を栽培或いは保護していただろうし、それぞれの集落の特産品を交易していたことは遺物からも証明されている。

話は少し脇道へ逸れる。

三月三日、桃の節句に供える菱餅は、今では菱形に切った三色の餅を指すが、本来は水草の菱の実に由来するようである。

菱の実には烏菱(くろひし)のほかに青・紅・紫があったと『本朝食鑑』にある。

稲作が伝播する前の穀物の中で重要な位置を占めていたのは真菰(まこも)である。

マコモは、イネ科マコモ属多年草。別名ハナガツミ。東アジア東南アジアに分布しており、日本では全国に見られる。

水辺に群生し、河川などに生育。また食用にも利用される。成長すると大型になり、人の背くらいになる。

花期は夏から秋で、雌花は黄緑色、雄花は紫色。葉脈は平行。黒穂菌に寄生されて肥大した新芽(マコモタケ)は食用とされ、古くは万葉集に登場する。

中国台湾ベトナムタイラオスカンボジアなどのアジア各国でも食用や薬用とされる。

さらに、日本では、マコモダケから採取した黒穂菌の胞子をマコモズミと呼び、漆器の顔料として用いる。北米大陸の近縁種 (アメリカマコモ) の種子は古くから穀物として食用とされており、今日もワイルドライスの名で利用されている。以上の記述はマコモで検索した結果です。

五月五日には葉・茎を採って角粽(ちまき)を作り、燈心草で繋る。これは我が国の端午の佳例であると『本朝食鑑』にある。

ここで本題のドングリに話を戻す。ドングリは現在でも「かしきり」または「樫豆腐」と呼ばれる食品として食べられている。

「かしきり」の「きり」は「葛きり」の「きり」と同義である。

「かしきり」は、高知県安芸市の山間地「東川地区」に伝わる、樫の実(あらかしの実)で作る豆腐のことである。

炭焼きが人々の生活を支えていた頃は、「かしきり」が重要な食材であり、「かしきり」作りは、主に留守宅を守る年寄りの仕事でした。

この食べ方は朝鮮渡来のもので、韓国では今でも食べています。

日本では、ここだけに残っている貴重な食文化です。(十六世紀に長宗我部元親が朝鮮から帰国するとき、朴好仁一族を連れ帰り、土佐に豆腐・にんにく・樫の実を原料とする「かしきり」の文化を伝たといわれています。以上も検索の結果です。

詳しい作り方なども検索できます。

 

◆どんぐり轢かれて粉になっている  白兎

 

 

 

「椎の実・しいのみ」

 

私の原風景の一つに「鎮守の森」がある。記憶の中の「鎮守の森」は黒くてこんもりとしている。

小高い丘の頂に小さな社殿があって小学校の帰りによく遊んだものである。

子供の頃は何の意識も持たず、ただ無心に遊んでいただけであったが、今にして思えば黒くてこんもりしていたのはシイの大木に覆われていたからに他ならない。

シイはブナ科の樹木で、樹高は二十五メートルにも達する大木となる。広葉樹であるが落葉はせず、所謂、照葉樹である。

文化人類学という学問の分野に「照葉樹林文化論」というのがある。

日本西半部から中国華南、ブータン、ヒマラヤにかけての照葉樹林帯とこの地域に住む民族の文化要素の類似性を一つの文化圏として捉えようとしたものである。

その内容をつぶさに知るところではないが、シイやクスが茂る「鎮守の森」は、祖先からの宗教観を伝えるのと同時に、その文化を育んだ自然環境としての照葉樹林をかたくなに守ってきた場所なのである。

私が子供の頃に教えられた日本の歴史では、先ず原始時代、石器時代があって、人々は洞窟などに住み、狩猟や漁労や採集などで生活していた。

続く縄文時代には竪穴式住居に住み、縄文式土器を使い、狩猟や漁労や採集を主とした生活をしていた。

次の弥生時代になると稲作が伝わり農耕を主とした生活に変わった、といった具合であった。

ところが、最近の考古学では、紀元前約一万年から紀元前約五〇〇年頃まで続いた縄文時代においても、イヌやブタを飼育し、ヒョウタンやウリ、ゴボウ、エゴマ、クリなどの植物を栽培し、縄文時代後期においては穀物の生産も行なわれていたことが明らかになりつつある。

話があらぬ方向へ向いてしまったが、縄文時代の狩猟、漁労、採集の生活とは一体どのようなものであったろうか。

私自身の経験からすれば、狩猟は、クマ、イノシシ、シカ、カモシカ、ウサギ、タヌキ、キツネなどの獣類。キジ、ヤマドリ、カモ、ヤマバト、ウズラ、カケスなどの野鳥類を罠や落とし穴や弓矢を使って行なっていたものと思われる。

私はサツマイモ畑を荒らしに来るイノシシを捕えるための落とし穴や野鳥を捕える罠の仕掛けを子供の頃に見た記憶がある。

漁労は骨角製の釣針やヤスのほか魚網や簗や筌などの漁具を使って行なったであろう。

日本の河川にはサケやアユやウナギ、ウグイなどが豊富に遡上した。

さて、これからが本題の採取である。山菜の採取を趣味とする私には最も関心のあるところである。

縄文時代ならずとも今日の日本でも盛んに採取が行なわれているのである。

先ず、ワラビ、ゼンマイ、コゴミ、ノビル、トトキ、ウド、タラの芽などの山菜類。マツタケ、ハツタケ、シイタケ、シメジなどの菌類。

ヤマイモやヤマゴボウや百合根、ワラビ粉、カタクリ粉、クズ粉などの根茎類。

アケビ、マタタビ、ヤマブドウ、キイチゴ、ヤマボウシの実などの果実類。

シイの実、クルミ、クリ、ドングリ、トチの実、ヒシの実などの堅果類である。

そしてこの堅果類がもっとも安定した収量があり、且つ長期の貯蔵にも耐え得る重要な食料であった。

今日でもクリやクルミは普通に食べられている。トチノミはトチ餅に、ドングリも四国の高知あたりでは加工されて今でも食べられていると聞いたことがある。

シイの実もドングリの仲間であるが、一つ違うのは生でも食べられるということである。

普通、デンプン類は生で摂取するとデンプン中毒を起こすことがある。生で食べても安全なのはシイの実とヤマイモのデンプンくらいではなかろうか。

今でも福岡の大宰府天満宮では露店で炒ったシイの実を売っているそうであるが、シイの実は軽く炒って食べるのが美味いし、堅い皮を剥くのも楽である。

子供の頃にはたくさんのシイの実を拾っておいて炒って食べたものである。

その方法は缶詰の空き缶などに釘で孔を開けて針金で把手を付け、焚き火にかざして炙るのである。

当時の悪餓鬼はマッチを持っていたし、マッチがなくても凸レンズと消し炭で簡単に火をおこすことが出来た。 

 

      椎の実を拾うひもじい夢から覚める  白兎

 

 

 

「山芋・やまいも」 

   

 私が初めて山芋を掘ったのは八歳の頃である。場所は生家の正面の山で通称を「ウバガミさんの山」という。

山の突先に「ウバガミ」を祀った小さな祠がある。「ウバガミ」が姥神なのか乳母神なのかは定かではない。

祠の前には古い碾臼が置いてある。なんでも昔は乳の出ない女衆がお参りしたものらしい。

この山は今日では開墾されて一面の茶畑に変貌しているが当時はまだ雑木林になっていて其処此処に山芋が生えていた。

山腹の傾斜の具合や土質が手ごろだったので子供の手でも案外と簡単に山芋を掘ることが出来た。

秋もようやく深まる頃になると山芋の葉は鮮やかに黄葉する。

山芋は周囲の草木よりも黄葉するのが少し早いので慣れた者には見つけ易い。鮮黄色のハート形をした葉を目当てに探す。

山芋の地上部は蔓草である。

蔓の色には変化があって一概には言えない。蔓は陽当たりの良いところまで一気に伸びてから葉を広げる。

従って、地面からしばらくの間は葉が一枚も無い。蔓には節があって、節のところに上向きの丸みのある膨らみを持つのが山芋の特徴である。

近似種の野老(ところ)では鉤状の突起が下向きについている。

葉のハート形にも特徴がある。トランプのハートに近い形、所謂、芋っ葉のものは通称「馬鹿芋」とよばれるもので正式な和名はニガカシュウである。

担根体、つまり芋は蒟蒻芋に髭根をつけたような丸い形状を呈する。

オニドコロともいう野老(ところ)はハート形の輪郭が角張っていて、葉脈の流線に滑らかさを欠く。

蛇足だがヤマノイモ科は単子葉植物だから葉脈は網目にならない。芋は節くれ立った塊で一面に髭根を有する。

この髭根を翁の白髪に見立てて正月の縁起物にするわけである。

山芋は蔓の太さから芋の大きさを判断する。当たり前のことだが、蔓が太くて長く、広範囲に蔓延っているものほど芋が大きい。

さて、手ごろな蔓を見つけたら、最初に蔓をたどって生えている場所を確認する。次に、付近の草や潅木を鎌で刈り払う。

作業環境を整える訳である。

刈り取った草や潅木は纏めて斜面の下側へ置く。掘った土石が直ちに崩れ落ちないように塞き止める役目である。

これで山芋掘りの準備完了である。

続いて、蔓の根元を丁寧に掘って臍(ほぞ)を探す。山芋は臍を中心にして放射状に根を伸ばしている。

慣れてくると、この根から臍の位置を読めるようになる。

臍の位置を確認したら、臍から幾らか離れた下側から鍬を入れる。山の勾配と予想される芋の長さから大体の掘削深さを決めるのである。

山芋は臍から概ね垂直に伸びている。穴は幅三〇センチほどで底が水平になるように形よく掘るのが良い。

粗方掘れたら、次には先を削って尖らせた棒切れで芋の周りの土を取り除く。この際に山芋を傷めないよう注意することが肝要である。

特に、山芋の先端は柔らかくて傷めやすいので注意を要する。

山芋に細い根っこなどが絡んでいるのを見落とすと、最後のところで思わぬ失態を招き、大事な芋を折ってしまう。

周囲の土石や根っこを丁寧に取り除き、先端から徐々に土から外しておいて、最後に臍(ほぞ)を切って穴から取り出す。

臍は穴の中か穴の上側に埋めておくと、次の春には芽を出して、数年もすれば元の大きさの山芋に戻る。

掘った山芋は手ごろな蔓を探して副え木に括る。この時、薄(すすき)を刈って簡単に包むとよい。

山芋の苞(つと)は古来、薄が相場である。薄が無い場合には野茶(ひさかき)などに括ってその枝葉で包む手もある。

山芋の掘り穴は山石などを積み、土で埋め戻しておくのが礼儀である。

ここまで話した序でに美味しいトロロ汁の作り方を紹介しよう。

先ず、準備する道具であるが、肌理の細かな下し金と大振りの擂鉢、それに擂粉木が必需品である。

昔ながらの焼き物の下しがあれば最適だが無ければ擂鉢で直接磨り下ろすこともできる。

この場合は山芋を布巾などで包んで磨ると滑らなくてよい。

トトロ汁を作るときの擂粉木は山椒のものよりタラの木で作った太めのものがよい。

次に材料である。山芋は肌の奇麗なすんなりしたものがよい。色で言えば黒っぽいものは避けたほうがよい。

端的に言って山芋も色白がよい。

土質の悪いところで掘った山芋は磨り下ろすとアクが出て黒くなってしまう。調味料は田舎味噌と鰹節があればよい。

鰹節がなければ鯖節でも雑節でも結構である。

道具と材料が揃ったら山芋を洗う。山芋には思わぬところに小石が挟まっていたりするので適当な長さに折って丁寧に洗う。

竹で作った小箆などを使うと存外上手く洗える。

鰹節で濃い目の出汁をとり、味噌を溶いて味噌汁を作る。味噌汁も多少濃い目に加減したほうがよい。

山芋を下し金で磨り下し、擂鉢で暫らく当たる。

全体的に均一な状態になったら、お玉杓子に半分程度の味噌汁を加えて更に当たる。この時、味噌汁は熱いほうがよい。

よく当たって再び全体的に均一な状態になったらお玉杓子に七分目位の味噌汁を加える。

この繰り返しで一回に加える味噌汁の量も徐々に増やしながら適度な濃さまでのばす。

あまり急ぎすぎて、一度に大量の味噌汁を加えると、山芋と味噌汁が分離してしまってトロロ汁が上手くのびない。

この状態を「ママッコ」になるという。ママッコつまり継子である。仕上げに隠し味として若干量の醤油を加えてトロロ汁の出来上がりである。

トロロ汁には麦を多めにした麦飯がよく合う。麦トロは消化がよいから多少食べ過ぎても直ぐに楽になる。

山芋の食い方には、トロロ汁の外に山かけや月見、魚鳥のすり身に混ぜてしん薯にする方法もある。

私が子供の頃には、焚き火の灰に埋めて焼いて食べたものである。

 

      自然薯掘りの谺が響く  白兎

 

 

「年魚・あゆ」  

  

 アユは鮭亜目アユ科の魚で、地球上に出現したのは今から百〜二百万年前とされる。

主産地は日本であるが、朝鮮半島の日本海に注ぐ諸川、中国の福建省、台湾の諸川に分布する。

かつては渤海湾にのぞむ遼東半島の川にも生息したと言われている。

亜種として沖縄諸島の一部にリュウキュウアユが分布するが、絶滅寸前の状態で保存が急がれている。

 山菜譚の中に年魚を加えるのは何故か。山菜とは「山野で採る酒肴の義」と勝手な解釈をした次第である。

 日本人と年魚との関わりは古く、古事記、日本書紀、風土記、万葉集などに数多くの年魚に関する記述がある。

その中で、景行紀、五十一年に「年魚市郡、熱田社」とあって後の尾張国愛智郡つまり今日の愛知は年魚にまつわる地名であることが判る。

 古事記や風土記では「年魚」と表記されていたものが「鮎」となったのはいつ頃からか。

それは延喜十一年(九一一)、橘広相が著した『侍中群要』に鮎、鮎魚とあるのが嚆矢とされる。

「鮎」の字は中国ではナマズを表す。京都の妙心寺にある国宝の如拙画『瓢鮎図』は瓢箪アユではなくて瓢箪ナマズである。

 年魚の別名を国栖魚(くずいお)というのは、吉野川の川上に住み、贄(にえ)を献じ、風俗歌を奏した国栖(くず)という人々が献じる魚という意味で、日本の建国神話と深いかかわりをもつ。

銀口魚とは、年魚の口辺が白銀色に光っていることによる。

渓鰮とは谷川のイワシの意である。この他にも年魚の別名は幾つもある。

 「アユ」の語源に関しては、貝原篤信がその著書『日本釈名』の中で「あゆる」即ち「おつる」の意からきたとし、谷川士清(たにかわことすが)は『鋸屑譚』の中で、可愛い魚を意味するとした。

飯島茂は『鮎考』で、「ア」は賛嘆の語、「ユ」はウヲ、イヲの短促音だから、アユは佳い魚、美しい魚を意味するとしている。

この飯島説は言語学的にも説得力があるようだ。「年魚」という表記であるが『倭名類聚鈔』一九に「鮎、一名、鮎魚、安由、春生、夏長、秋衰、冬死、故名年魚也」とある。

 鮎にまつわる神話として巷間によく知られたものが二つある。その一つは、神武天皇が東征のさい、丹生川で飴を入れた厳甕(いつへ)を沈め、もし魚が木の葉のように浮くなら、自分は天皇の位に就くことができるであろうと神意を占ったところ、アユが浮いたという話。

この神話に基づいて、大正、昭和両天皇の即位の際に、五尾の稚鮎と厳甕をあしらった萬歳旙を使用したことが知られている。

二つ目の、神功皇后の話は『日本書紀』の神功紀、仲哀九年四月の記事である。

即ち、肥前国松浦郡玉島里の小河で、皇后が縫針を曲げて釣針とし、米粒を餌に、裳の糸を釣糸にして「われ西方にある財の国を求めんと欲す、もし事を成すことができるなら、河の魚がかかれ」と神意を占ったところ、細鱗魚がかかった。この故事によって、魚編に占うとつくって「鮎」の字になったという話である。

ところで現在でも鮎を使って占いをする神事が伝わっている。

三重県度会郡大宮町滝原字野後の「おんべ祭り」である。毎年の旧暦六月一日に大宮町漁業組合が主催して豊漁を祈る祭りをしたのち、大滝峡の断崖から川の中にある「お鉢」と呼ぶ大きな岩の凹みをめがけ、生きた鮎を投げ入れてその年の豊凶を占うのである。

ぴちぴち跳ねる鮎は二十四尾、その内の十二尾は伊勢神宮の別宮・滝原宮へお供えして、残る十二尾を町の代表十二名が六メートルほど離れた直径六〇センチほどの「お鉢」へ投げる。

伊勢神宮といえば、大昔から、元旦に鮎の干物を献進する鮎饗神事というのがあり、現在でも一年で最初のお祭りの歳旦祭に塩香魚の神饌がお供えされている。

鮎の漁法には各種あるが、その代表格は鵜飼漁であろう。

鵜飼の歴史は古く、『隋書』の「東夷伝倭国列伝」や『万葉集』の大伴家持の歌などで知ることが出来る。

鵜飼の他にも、張網、投網、追い叉手網、各種の筌、簗、えり、毒流し、夜振り、引掛け、突きんぼ漁、毛針釣り、バリ漁、そして囮鮎を使った友釣りなどがある。毒流しを除く各種の漁法は、昭和二十四年に漁業法が施行されて以降、各都道府県の規則で許可漁法となった。

鮎漁の解禁、禁漁も明示され、違反者は罰せられる。鮎の資源保護の歴史も古く、天武天皇の時代に「遮隙」という一種の簗漁を勅命により禁止した。

嵯峨天皇の弘仁五年には、近畿地方で盛んであった小アユ漁を四月一日以前に行なってはならないとした。

陽成天皇の元慶年間には毒流しを禁止している。

鮎の料理に触れておく。最も一般的なのが塩焼きである。小鮎のフライも美味い。魚田、鮎鮨、鮎飯、鮎粥。生食では、背越し、刺し身。

保存食としては、干し魚、塩漬け、煮びたし、うるか(鮎の腸、または子を塩漬けにした塩辛のような食品)、変わったところでは、塩焼きの鮎を青竹の筒に入れ、熱燗で飲むカッポ酒、或いは骨酒などがある。

私のところへ毎年暮れになると友人が送ってくれるのが鮎の昆布巻きで、那珂川で獲れた子持ち鮎を厚手の昆布で巻いたものである。

話が冗長になってしまったので残りはこの辺で端折っておく。

 

      役割終えた囮鮎に塩を打つ  白兎

 

 

 

「芹・せり」   

 

 蕨、薇、蕗、と、くれば次は芹あたりではなかろうか。芹はいわずと知れた「春の七草」の一つである。

春の七草とは、正月七日に粥に炊いて食べ、一年中の邪気をはらうという七種類の若菜のことである。

七種粥の歴史は古く、「若菜の節」或いは「七草の節句」と呼ばれる年中行事で五節句の一つである。

五節句とは、正月七日の人日、三月三日の上巳、五月五日の端午、七月七日の七夕、九月九日の重陽をいう。

 春の七草は次の歌を暗唱すると憶えやすい。「せり・なずな・ごぎょう・はこべら・ほとけのざ・すずな・すずしろ・これぞななくさ」これを五・七・五・七・七の調子で四、五回も口ずさめば間違いなく憶えることができよう。

 早春の田圃の畦や水辺で芹を摘むことは昔の人も好んだらしい。芹特有の香気が春の訪れを一層強く感じさせるようである。

芹の中でも特に珍重されるのが所謂、寒芹である。寒中の陽だまりなどに生えている芹で香気も一段と強い。

 用水路のコンクリート化や除草剤の散布などに因り昔に比べて田圃の畦の芹も減った。

しかし、減反政策という愚策の結果、無造作に放置された田圃一面に芹が生えているといった光景にも稀には遭遇する。

ここ数年、私が芹を採る場所もそうした田圃の跡である。長期間にわたり放置されているため、無惨にも蒲などが蔓延っているが、その枯れた蒲の間から芹を採るのである。

 芹には、ビタミンA・B・Cが豊富に含まれており栄養価も高いので所謂「野菜」としても優秀な食品である。

芹は胡麻和えやお浸し、鍋物の添え野菜にするのが普通であるが、特に秋田の郷土料理きりたんぽ鍋や山形の納豆汁には欠かせない一品である。

 芭蕉の句にもある芹飯は、出汁と醤油で味をつけて炊き上げた飯に、軽く茹でてアクを抜いた芹を手ごろに刻んで混ぜたものらしい。

土筆飯はこの春に俳句の先輩のお宅でご馳走になった。大変残念なことだが芹飯は未だ食したことがないのである。

 

◆じる田の芹は靴を汚して採る  白兎

 

 

「蕗・ふき」

 

 私はこの稿を書く直前に蕗の皮を剥いたばかりである。その蕗は大井川上流の井川地区から材木を運搬する人が採ってきて届けてくれたものだ。

六月も下旬だからちょっと硬いのは致し方ない。ただいま妻が夕飯のおかずにするべく台所で煮ている。

狭い家だから部屋中が蕗の匂いで充満している。

 山菜を語るとき、早春の味覚として忘れられないのが蕗の薹である。蕗の薹は蕗の花の蕾である。

 蕗はタンポポと同類でキク科の植物である。キク科の植物は電照菊の例でもわかるように、日照時間に敏感に反応して花を着けるらしい。

遵って、気温がかなり低くても蕗の薹は出る。因みに、私は梅の花の開花を目安に蕗の薹を探す。

蕗は地下茎を持つ多年生植物であるから、去年と同じ場所へ行けば必ず採れる。沢筋の陽当たりの良い場所が穴場である。

 蕗の薹は薄い衣をつけて天麩羅に揚げるのがよい。

独特の苦味も油で揚げることによって大幅にやわらぐ。軽く茹でてから水に晒して苦味を抜き、酢の物にしてもよい。

細かく刻んで味噌に混ぜ、控えめの油で軽く炒めて蕗味噌にすれば酒肴に最適である。蕗味噌の作り方は他にも方法があるようだ。

早春、蕗の薹を採った場所へ5月頃に再び出かける。今度は蕗の葉柄を採るためである。普通、蕗を採るといえば蕗の葉柄を取ることを指す。

蕗は比較的場所を選ばず、山地や草地などにも生えるが、品質の良い蕗は沢筋に生えている沢蕗と呼ばれるものである。

水気の多い沢筋に生える蕗は、根元の部分が淡紅色に色づき葉柄が太くて長い。これに対して林道などの脇に生えている蕗は、葉柄が細くて短い。

蕗は醤油や味醂で炊いて伽羅蕗にするのが一般的な食い方である。

濃い味を好まない向きには、茹でて皮を剥いてから胡麻油で炒め、出汁を効かして薄い醤油味に仕上げることをお奨めする。

苦味は少し残るが如何にも蕗の風味がして美味い。

台所の蕗もそろそろ煮あがったようだ。今宵の一献が楽しみである。

 

      水無月の蕗を煮る  白兎

 

 

 

 

「薇・ぜんまい」

 

 蕨とくれば次は薇が順当であろう。春も酣の頃、私が住む町の庭や空き地に所狭しと莚を広げて干されるのが薇である。

これは、この辺りに多く居住する韓国・朝鮮を母国とする人たちの年中行事である。韓国・朝鮮の人たちは殊の外に薇を好む。

事実、薇をふんだんに使った朝鮮料理のビビンバは文句なく美味い。

ビビンバはピビンパップと発音するのが正しいそうだが、ご飯の上にナムルを載せたものである。

ナムルは「おかず」と訳して差し支えなかろう。

 薇も蕨と同じ羊歯植物である。蕨は長い地下茎から生ずるが、薇の根茎は株状である。生態は蕨とほぼ同様であるが薇の方が少し日陰を好むのかもしれない。薇も冬には葉が枯れる。春、根茎の上にフェルト状の毛に包まれた新しい葉を出す。

新しい葉は発条のように渦状に巻いている。

この渦巻状の新しい葉が所謂「薇・ぜんまい」で、その葉茎の部分を食用に利用する。

新しい葉の中には伸びて普通の葉になるものと、胞子葉といって繁殖のための胞子を作るものと二種類がある。

胞子葉は食用に適さないので採取しない。

 家に持ち帰った薇はフェルト状の綿毛と葉の部分を丁寧に取り除く。茎の部分だけになった薇は大鍋にたっぷりの湯を沸かして茹で上げる。

茹で上げた薇は木灰を塗して莚に広げて天日で干す。このときに、何度も何度も手で揉んで繊維をやわらげ完全に乾燥させる。

このように日光で干しあげたものを赤乾(あかぼし)といい、松葉で燻蒸して乾かしたものを青乾(あおぼし)という。薇の風味は乾物にあって、生の薇を料理しても美味しくない。

干薇を調理するときは、あらかじめ微温湯に浸して元の姿に戻してから使う。朝鮮料理にすれば勿論申し分ないが、油揚げなどと一緒に和風の煮物にしても、下味をつけて白和えにしても十分美味しく食べられる。

 話の序でに、中国の故事に触れておく。

伯夷と叔斉の兄弟が周の粟を食うのを恥じて首陽山の薇を食って露命をつないだが、終には餓死したという逸話である。

『史記』によると、殷王朝最後の紂王(名は辛)は妲己(だっき)を溺愛して虐政を行ったため、周の武王に討たれた。

伯夷と叔斉の兄弟は、天下を取った武王に諫言したが、聞き入れられなかったことに抗議して首陽山に籠もったのである。

 

      皺くちゃのオモニが薇を揉む  白兎

 

 

「蕨・わらび」

 

 これは何かの折りに聞いた話である。太古、地球上に恐竜などの爬虫類が跋扈していた頃には、植物界でも羊歯類が全盛で、大型の羊歯植物が繁茂していたらしい。当然、草食の恐竜もいて、豊富な羊歯類を鱈腹喰らって繁栄していたようである。

 その羊歯植物だが、この仲間には所謂、毒草と呼ばれるものが存在しないそうである。

有毒植物は羊歯植物から顕花植物への進化の過程で出現したようだ。しかし、毒が無いからと言って羊歯類全体が食用に適しているわけではない。

羊歯類の中で一般的に食用されているのは、「蕨・わらび」「薇・ぜんまい」「清滝羊歯・きよたきしだ」「こごみ」などである。

「こごみ」は山菜としての呼び名で植物学的にはオシダ科クサソテツという。これら食用の羊歯類に共通することは、冬になると地上部が枯れ、翌春に若芽を出して更新する夏緑性植物であるということだ。だから、春先にその柔らかな若葉を採って食用にするという次第である。

 最初に有毒の羊歯植物は無いと申し上げたが、これら羊歯類の山菜も大半は、生の状態ではアクが強く、エグ味があるので生食には適さない。

私は蕨を食うときにいつも思う。木灰を利用して蕨のアクを抜く方法を最初に発見した人は、河豚を最初に食った人と同じくらいに人類に貢献したのではなかろうかと。

 さて、蕨の話である。蕨はウラボシ科の羊歯類だから花の咲かない隠花植物である。地上部は冬に枯れるが、地中には延々と地下茎を張り巡らせている。

蕨の地下茎には良質の澱粉を多量に含んでいる。この地下茎を掘り採って擂り潰し、水に晒して精製したものが蕨粉である。

蕨粉から作る蕨糊は接着力が強く、傘や提灯を貼るのに用いられる。蕨餅は蕨粉から作った餅で黄粉や黒蜜をかけて食べる。

 枯れた蕨は明るい茶色である。他の枯れ草と色彩が少し違うから注意して見るとすぐに判る。蕨を採るということは、即ちこの枯れた蕨を探すことである。

前年の冬に枯れた蕨の下には翌春必ず早蕨が萌え出すのである。

 蕨採りには小さな鎌を使うと具合が良い。なるべく根元から刈り取って家に持ち帰る。蕨を食うためには最初にアクを抜かなければならない。

アクの抜き方には幾通りかある。先ず、蕨を手に持って軽くポキッと折れるところで折り、根元の硬い部分は捨てる。

残った柔らかな部分を器に並べ、木灰を振りかけてから熱湯を注ぐ。一晩放置してから真水で木灰を洗い流す。これでアクは完全に抜けている。

木灰が入手できないときは、稲藁を一把燃やして藁灰を作る方法がある。また、硬い部分を取り除いた蕨を茹でて木灰を塗す方法もある。

生のままの蕨をたっぷりの塩に漬け込んで保存する方法もある。

 一番簡単なアク抜きの方法を伝授しよう。

薬局から胃酸過多の人が服用する重曹を買ってくる。硬い部分を取り除いた蕨に、重曹を薄く霜が降りた程度に振り掛ける。

蕨全体が浸かるまで熱湯を注ぎ一晩放置する。翌朝、重曹の液を奇麗に濯ぎ流してアク抜きは完了する。

灰にせよ重曹にせよ使用量が多すぎると蕨は溶けてしまうので、量を加減することが肝要である。

 蕨の料理方法について申し上げよう。私は毎年、最初に収穫した蕨を必ず味噌汁にして味わう。

収穫量が多くなると、今度は油揚げなどと一緒に煮て食べる。アクを抜いた蕨に花鰹と醤油をかける、所謂、「蕨のおひたし」なる食い方を私は好まない。

 美食家として夙に著名なかの北大路魯山人は、山の蕨は海の河豚に匹敵すると言っていたそうである。

河豚と同様に、味は淡白だが、それだけに料理人が腕を揮うのに格好の材料となるようだ。

 なにやら取り留めの無い話に終始したが、今回からは山菜の話にお付き合いいただくことにする。

 

◆誰にも教えないわたしひとりのわらび山  白兎

 

 

 

 

「犬の系譜」

 

ここで云う犬とは、他ならぬ我が家の飼犬チィー坊のことである。チィー坊の出自について少しく疑義のあるところを私の記憶が確かなうちに正しておこうと思う。

チィー坊の母系すなわち母犬は血統の確かな甲斐犬であった。これは元の飼い主である入谷参勇氏が山梨県石和温泉の愛犬家から大枚の金と引き換えに連れ帰った犬であって、私自身がこの眼で見ているのだから間違いはない。一方、父系はまったく分らない。つまりどこかの野良犬がきて飼い主も知らないうちに母犬を孕ませたものである。チィー坊は甲斐犬の特徴を色濃く残してはいるが、体毛などは洋犬の特徴を示している。目玉のくりっとした黒の中型犬である。

チィー坊が6歳になるまで育てた入谷参勇氏の叔父貴に当たる人物が安東一家井川貸元3代目の入谷雄一氏である。この人物については、島田市在住の俳人、松下三郎氏の書かれた一文があるのでここに紹介しておく。

《 白兎さんの話に、清水一家井川貸元、入谷という名前がでてくるが、昔、会ったことのあるお爺さんの縁故の人、あるいは、その人本人である可能性が強い。

 昔、山村井川では楽しみが少なかったので,博打の類は結構発達していた。女衆の間でさえも宝引(ホッピキ)が盛んに行われていたし、我々がよくやったのがチョボイチである。もちろん丁半も盛んで、田代の諏訪神社の祭礼には、清水一家の親分が出向くほどで、昔ながらの賭場風景が見事に再現されていた。

 この入谷というお爺さんは、大変穏やかな性格だったが、井川近辺の貸元で、川狩り(材木流し)の人足衆について、彼らの行う丁半の胴元をやっていた記憶がある。

 昭和30年代初頭、井川ダム建設の関係で、建設業者が大勢はいり込んできたので、地元やくざの入谷お爺さんと、建設業者のやくざとの間でいざこざが起こったことがあった。賭場へ乗り込んできた建設業者のやくざが、縄張りを主張してきて、お爺さんの持っているテラセンの上がり金をよこせといってきたのである。驚いたことに、一見優しそうに見えた、このお爺さんは少しも騒がず、清水一家の縄張りであることを主張して、昔風の見事な仁義を切って退散させたのを覚えている。(松下三郎・・・私の寝言より抜粋)》

ここで松下三郎氏のいう清水一家とは、かの有名な清水次郎長親分の構えた一家である。安東一家貸元の入谷雄一翁がいつの間にか清水一家になってしまうのにはそれなりの理由がある。

次郎長には前後三人の妻がいたことはよく知られている。その三人目の「お蝶さん」は、三河(愛知県)西尾藩士、篠原東吾の長女として天保8年(1837)4月28日に生まれた。本名は「けん」。次郎長より17歳年下である。33歳で次郎長の後妻に入ったときには既に実子入谷清太郎がいた。子供がいなかった次郎長はお蝶の連れ子清太郎を非常に可愛がったそうである。

次郎長の菩提寺梅蔭寺の境内にある「次郎長遺物館」には、次郎長愛用の胴田貫やさまざまな遺品が陳列されているが、それらの大半はお蝶さんの遺子清太郎の入谷家が所蔵していたものである。
 入谷家の所蔵品の中でも珍しいのは、あの富岡鉄斎の富士の絵である。鉄斎が清水港波止場の『末廣』に泊まった際、描いたものと思われ、お蝶さんの手から、その子清太郎、孫の麟助へと受け継がれて残された。
 入谷麟助はお蝶さんと目鼻立ちの似た美男子で、事業家タイプであり、昭和戦前、鈴与商店の関係会社の重役をつとめた。麟助には二人の息子がいたがいずれも太平洋戦争で戦死している。

一方の安東一家とは、幕末の博徒、安東文吉あんどうのぶんきち1808 - 1871年)こと西谷文吉(にしたにぶんきち)が駿河国府中(現:静岡県静岡市葵区)に構えた一家である。文吉は二足草鞋の大親分で別名「暗闇の代官」とか「日本一首継親分」などと呼ばれていた。

文吉は、駿河国安倍郡安東村(現:静岡県静岡市葵区)の豪農であった甲右衛門の子に生まれる。大柄で相撲を好んだため10代の文吉は弟の辰五郎と江戸の清見潟部屋に入門し、芳ノ森の四股名で土俵に上る。後に故郷に戻るがバクチ打ちの群れに入り、自らすすんで人別帖より削られ無宿となる。兄同様に無宿となった弟の辰五郎と府中伝馬町の裏長屋に住み、夜は問屋場の人足部屋で壷を振っていた。この頃、お尋ね者の大場久八も文吉を頼ってくる。文吉20代半ば、友人が「炭彦」親分と借金のもつれで揉めた時には喧嘩相手の炭彦を斬る。この後、衆望を集め親分となるが場所的によい賭場を持っていた事もあり多くの猛者を統率していく。

大勢力となっていく文吉を見込んで天保9年(1838年)、駿河代官所は文吉と辰五郎の兄弟を呼び出して十手取縄を預けようとする。この背景には封建社会の建前だけでは解決できない遠州博徒の騒乱を文吉の手を借りて収めようとする意図があった。揉め事を押し付けられた文吉は固辞したが結局は引き受ける。二足草鞋となってからは乾児に賭場を運営させて、自らはバクチをしなかったとされる。文吉には十手と同様に公用手形の交付権も与えられていたために無宿の旅人で事情を抱えている者はこれを庇っている。「首継親分」の呼び名はこれに由来する。

遠州の博徒、国領屋亀吉こと大谷亀次郎は後年、幕末動乱のやくざ社会の様子を尋ねられた際に「清水次郎長、長楽寺清兵衛、堀越喜左衛門、大和田友蔵、雲風亀吉・・・。みんないい顔だったよ」と名前を挙げているが「文吉さんはどうでしたか」と聞かれた際には土地の方言を使って「あの人はオッカネェー(恐ろしい)人だ。ただのやくざではねぇ」と死んだ文吉を畏れたとされる。

安東一家は2代目安東の須磨吉こと西谷須満吉、3代目渡辺綱吉、4代目長倉長作、5代目青木定吉と昭和も戦後まで続いた。なお、安東一家井川貸元の初代は文吉直系の小長井清次郎、2代目は入谷松吉、3代目の雄一は松吉の実子であり昭和36年12月21日行年62歳で没している。

 

 

「M氏の鯉」

 

 ウイリアム・エル・ムーア氏と私はまったく面識がない。それどころかムーア氏は今から11年も前の1996年に異国の地であるこの日本で既に亡くなっている。

 プライバシーにかかわる問題もあるからここに詳しく書くことを差し控えるが、ムーア氏の名前や住所は今でも住宅地図に載っているし、昭和20年代にNHKラジオの英語講座に講師として出演していたことは当時の新聞のラジオ番組欄で確認できる。

ここらあたりまでは公然の事実として書いても差し支えなかろう。

 それでは、どこでムーア氏と私とが結びつくのか、そのあたりの事情をかいつまんで説明する。

ムーア氏の敷地と私が関係している事業用地とが隣接していて、しかも事業用地を測量したときの引照点がムーア氏の敷地内に設置してある。

引照点というのは多角測量の控えのポイントである。最近、事業用地の一部を再測量する必要が生じたのでムーア氏のご遺族を探し当てて、敷地内立ち入りの了解を取り付けたのがこの私である。

 ムーア氏の住宅は富士を望む海岸の絶壁の中腹に建っている。いや、絶壁の中腹という表現は正確さを欠く。

絶壁の中の小さな稜線の鞍部に載っているというのが正しい。海抜高度69メートル。周囲は鬱蒼とした自然林である。

建物は今にも崖から転がり落ちそうにも見えるが、地盤は岩盤で意外と安定しているようである。

ひところは浮浪者が住み着いたりして怪しげな雰囲気であったが、最近では警備会社によって遠隔管理されている。

 建物の裏手に広さ数平方メートルの小さな瓢箪池が設えてある。坪数にして2坪弱といったところである。

ことしの春先、つまり2007年の2月頃のことであるが、何気なく覗いた池の表面に直径7〜80センチの澄んだ水面が見えて、真ん中に一尾の錦鯉がじっと沈んでいた。錦鯉の体長は30センチほどで、極端な頭でっかちで胴体の部分は扁平に痩せ、まるでシーラカンスの化石のようにも見えた。

 飼い主が亡くなってから既に11年の歳月が流れている。山中のそれも周囲の樹木からの落ち葉でほぼ埋め尽くされた小さな池の中でたった一尾だけ生き残った錦鯉の生命力に私はある種の感銘を覚えた。

 野生の鯉がどんなものを餌としているのかよく解らないが、この錦鯉はたぶん池に発生するボウフラを主食として、周囲の樹木から落ちてくる毛虫や昆虫、稀に迷い込む蚯蚓や百足や馬陸などを食べて辛うじて生き延びていたのではないかと考えられる。

また、周囲が樹木に囲まれていて水温の急上昇や蒸発がさけられたこと、建物の屋根から雨水が補給されたことなど幾つかの好条件が重なったことも幸いしたのであろう。

 さて、聞いたことのあるような台詞だが、見てしまったのだから仕方がない。私は直径1メートルにも満たない水溜りで健気に生きている錦鯉をこの目で見てしまったのである。見ちゃった以上はやるしかないのです。

 私は先ず、道具の準備から始めた。捨ててあった自転車の荷物篭を外してきて長さ1.5メートルほどの柄を付けた。

これで池を埋め尽くしている落ち葉を掬い取ろうという魂胆である。次にラーメン屋が茹でた麺を掬うときに使うあのステンレ製の網にも竹で柄を付けた。

池の底に沈殿している泥を掬い取ろうという目論見である。この二つの道具は思惑通りの活躍をしてくれて池の中の固形物は殆んど除去できた。

 世の中には色々な人がいて様々な意見がある。ムーア氏遺愛の錦鯉についても、別の鯉もいる川か大きな池へ放流してやったらどうかという意見もあったし、いや下手に動かして鯉ヘルペスに罹っては可哀想だという反対意見もあった。

11年間も自力で生き延びてきたのだから今さら餌までは与えなくてもいいのではないかという意見もあったし、いや、これ以上痩せ衰えたら生きてはいられまいという意見もあった。世の中は常に動いているから先々のことは誰にも分からない。

錦鯉だって先々のことより今日明日の餌が欲しいのではないか、私は勝手にそう考えて必要最小限の餌を与えることに決めた。

 金魚屋の女将は商売上手とみえて、錦鯉と聞いた途端に色がよくなるビタミン入りだことのどうだことのと詳しく説明しながら数種類の餌を私の前に並べて見せた。鯉の餌には水に浮かぶものと沈むものとがあるようだ。

私は水に浮かぶタイプのものを選んで購入した。代価は一袋750円である。以来、一日置き程度で数十粒の顆粒状の餌を与えているが、最近ではすっかり普通の魚形に戻り、広くなった池の中を悠々と泳いでいる。

 

 

【山菜礼讃】

【蓬・ヨモギ】

 和菓子屋の店先にヨモギ餅が並ぶと、私は春来たれりの思いを確かにする。言わずもがなヨモギ餅は春の季語である。ヨモギと言えば源氏物語に「蓬生の巻」があり、枕草子の「庭なども蓬にしげりなどこそせねど云々」という件(くだり)、はたまた後拾遺和歌集の藤原実方の一首を知らぬわけでもないが王朝文学について云々する積りはさらさら無い。

 私がここで草餅と云わずヨモギ餅と言ったのは、餅草にはオヤマボクチや母子草、つまり春の七草の御形であるが、これらも餅に搗きこんで食するからである。餅草としては、むしろハハコグサの方が古いようである。また、蕎麦打ちのつなぎにオヤマボクチを用いることも古くから行われている。

 因みに、ヨモギはもとよりオヤマボクチも母子草もキク科の植物である。序でのことだから触れておくが、「山で美味いはオケラとトトキ」と並び称されるオケラも、嫁菜飯に欠かせぬヨメナも、蕗味噌にするフキノトウもキク科植物である。

 キク科ヨモギ属。私の故郷、静岡ではヨモギと呼ばずヨムギと訛る。日本中、そこかしこいたるところに分布しているのだからまさかヨモギを知らぬ人はいないだろう。だからヨモギそのものについてあれやこれやあげつらうことはしないでおく。我が家の飼い犬ジョン・万次郎、チィ坊両君さえも朝夕の散歩の都度に道端のヨモギへ小便をかけている。

 私が子供の頃の田舎では、桃の節句の菱餅は、赤を蜀黍餅、緑がヨモギ餅で、黄色はクチナシで染めるものと相場が決まっていた。また、端午の節句には菖蒲と一緒に束ねて軒先へ挿したり、菖蒲湯にも入れたものである。

 さて、ヨモギ餅に搗きこむヨモギであるが、東京などの老舗では伊豆七島あたりからその年の新物を取り寄せているそうだが、多くの場合は前年に摘んで、灰汁で茹でて、筵にひろげ天日干しにして乾燥保存したものを用いるのである。保存技術が進んだ昨今では、冷凍保存したものを解凍して使うことが多い。

 私がちょくちょく行く「真富士の里」という農家の主婦が運営する店の人気商品にヨモギ饅頭というものがある。粒餡をヨモギ風味の皮で包んだ蒸し饅頭である。ヨモギはミキサーにかけて粉砕してあるので色と味と匂いはまぎれもなくヨモギだが、昔のように草の繊維が混じっているということはない。

 ここまでの話しは前置きである。前置きの長いのが私の悪い癖だが、ここからがいよいよ触りということになる。

 六年ほど前のことだから、その時の状況を今でもよく憶えている。私は安倍川の護岸工事に従事していた。さよう安倍川餅の安倍川である。

 春先のことである。陽当たりの良い河原にヨモギが萌えていた。昼の休憩時間に土方仲間の森爺がヨモギを摘みだした。私はすぐさま、そのヨモギをどうするのかと森爺に訊いた。

 朴訥な性格の森爺は、言葉少なく天婦羅に揚げると美味いのだという。野生化した蒟蒻玉から蒟蒻を造り、ワラビやゼンマイを上手に灰汁抜きするこの老練な土工の言葉に異論をさしはさむ余地などまったく無い。森爺はヨモギだけでは料理が侘びしいから生椎茸や人参、豚肉なんぞをネタにするのだという。

 こういう場合に携帯電話は至極便利だ。安倍川の河原からすぐさま自宅へ電話が掛けられるのである。私が今夜のお菜はヨモギの天婦羅だと言えば、妻はすかさず酒の支度をして待っているという。酒と聞いてはこちらも黙ってはおられない。私は河原の枯れ草を掻き分け、鵜の目鷹の目でヨモギを探したのであった。

 ヨモギを摘むと独特の匂いがする。かなり強い匂いだがそれは必ずしも不快ではない。しかし天婦羅に揚げると、この匂いも軽減するし、癖のない味に仕上がるのである。

 しかしいくらヨモギの天婦羅が美味いからといって、街の有名天婦羅店の座敷へ上がりこんで鶴首して待っていたところで滅多なことで食膳に供されることはないだろう。専門店の天婦羅といえば、小柱の掻揚げ、車海老、穴子、キス、野菜といえば萌やし三つ葉かアスパラガスかシシトウといったところが定番だろう。私がこれまでに他所でヨモギの天婦羅を食したのは、山梨県は塩山市、あの快川和尚で有名な恵林寺の御門前にあるお店で山菜てんぷら蕎麦を食べたときのたった一度きりである。

 ヨモギを語るときにどうしても避けて通れぬのが灸(やいと)である。

 ヨモギは漢方では艾葉(ガイヨウ)と呼ぶ。止血、収斂、つまり血管の収縮を促すという効能である。吐瀉薬や腹痛、子宮出血などにも用いられる。乾燥した葉を突き砕き、葉身部を除いた腺毛、毛などの塊が艾(もぐさ)で灸(やいと)に用いる。

 物事の始まりを皮切りというが語源は最初にすえる灸のことである。子供の頃によく両親の背中へ灸をすえたものだ。皮切りは熱く、灸の痕は火ぶくれになるが、そのうち瘡蓋になり、むず痒くなるそうだ。そうだというのはいかにも無責任だが、私はいまだにお灸というものをすえたことがないので解からないのである。

 安倍川の西岸に手越という集落がある。古くから東海道の宿駅であるが夙に手越の遊女として名高いのである。うら若き遊び女が増水で安倍川を越せぬ旅人の無聊を慰めたということなのだろう。その手越に高林寺と東林寺という二つの名刹がある。両寺は灸所として有名である。高林寺は東海道に面してわかりやすい場所だから当地を通行のみぎりは立ち寄られるとよいだろう。

 蛇足を承知でもう一つ書いておく。

 子供の頃、ちょっとした切り傷や虫刺されなんぞには、ヨモギの葉をよく揉んで当てたものである。数年前に泊まった民宿の薬草風呂がヨモギの匂いだったので湯に浸してあった袋をこっそり開いてみた。袋の中身はヨモギやゲンノショウコなど身近にある数種類の薬草であったが、あの厄介な痔にもヨモギの煎じ汁で腰湯をすると効果があるそうだ。

 食べて美味しく、灸にして疲労を癒し、薬草としての効能もある。まさにヨモギさまさまである。

 ヨモギを天婦羅に揚げると美味い。この一言を云うために随分と能書きを並べたものである。

 

【五糞書・ごふんのしょ】

 二天一流の開祖、宮本武蔵玄信が著した『五輪書』に野糞の極意は書かれていない。

だが、生きるために食餌を摂れば必ず排泄せねばならぬというのが生きとし生ける物に負わされた宿命である。

しからばここに青柳維新入道白兎が恥を忍んで野糞の極意を伝授しようというのが地・水・火・風・空、五巻の趣旨である。

【地之巻】

この巻では野糞をするときの地理的条件について要諦を述べる。

先ずは足場を確かめることが肝心である。みだりに崖っぷちなどへ近寄ってはならない。

足を滑らせて転げ落ちては怪我をする。どうしても斜面を利用したいときには立木などにしっかり摑まって谷側へ尻を突き出してやるがよい。

無闇に急いで見境なく屈むと障害物で尻を傷つけることがあるので注意を要する。小枝といえども柔らかな尻に刺されば痛い。

蛇、百足、蜂などには特に警戒が必要である。井川大日峠で、こともあろうに恥部を蝮に咬まれて落命した女性の実例を筆者は知っている。

深山、荒野といえども人の通路へ脱糞するのは避けるべきである。

人が飲用する懼れのある渓流などを糞尿で汚染してはならない。

【水之巻】

 この巻では糞と水との因果関係について述べる。

便所のことを手洗いと云い手水(ちょうず)ともいう。厠(かわや)の原義は川屋だという。雪隠(せっちん)というのは禅家の用語だが雪も水の一形態に過ぎない。

かように糞と水との因果関係は深い。

時にして渓流の石を跨いで野糞をすることもあるが、あれは一種の緊急避難であって通常の場合は絶対にやってはいけない。

山間地では下流で飲料水に利用している場合が多いからだ。

野糞を垂れたあと手を洗う水が無いときは、水のある所まで辛抱するより仕方がない。

しかし不運にも糞で指先などを汚してしまった場合は、柔らかな草の葉などをよく揉んで拭いとるとよい。何事も工夫が肝心である。

【火之巻】

 この巻では野糞を垂れる時の身構えについて述べる。

登山愛好者などが山で雉を撃ちに行くと言えば野糞をしに行くことだ。女性の場合は花摘みに行くなどと言う。雉を撃つ時の射撃姿勢は銃をやや中腰に構えるらしい。

野糞の姿勢も始めはやや腰を浮かせ気味に入り、周囲の状況が安全であることを確かめてから、もう一段、腰を落とすとよい。花摘みの場合も要領は同じである。

俗に、蛇が女性の恥部に侵入したとか言う話を耳にするが俄かには信じがたい。蛇といえども天岩戸(あまのいわと)と石垣の隙間との識別はつくはずである。

あれは、蛇が鎌首を擡げるのと股間の一物が勃起するのを卑猥に連想した想像上の被害ではないのか。しかし、蛇は人の数十倍も温度の変化に敏感である。いきなり射程距離内に人間の体温を感知すれば餌と勘違いして咬みつくのは当然である。

従って、露出する身体の範囲で温度の高い部分すなわち放尿時の恥部は最も危険な箇所といわねばならない。屈んで用を足す女性の場合は特に注意が必要である。

毒蛇の害から身を守るためには手頃な棒切れなどで草叢を叩いて安全を確かめる方法が最もよい。蛇は霜が降りる頃になると冬眠に入るので晩秋から早春にかけての低温期は安全である。

【風之巻】

 この巻では野糞の後始末について述べる。

野糞であれ尻を拭う紙があれば問題ない。雑誌、新聞紙などで代用する場合はよく揉んでから使用するとよい。紙の代替品を自然界に求めるとすれば、蕗の葉などの広くて柔らかいものが最適である。柔らかな草を束にして使ってもよい。木の葉などは青葉よりも落ちて湿ったものの方が柔らかでよい。

尻を拭うのに、滑らかな肌の石とか藁縄などを使用した例もある。パンツ、ステテコ、タオル、ハンカチなどを尻拭きに使うのは邪道である。

己の糞は猫でも隠す。所謂、猫糞(ねこばば)である。万物の霊長たる人間が糞を隠さないとすれば猫にも劣る。糞は土で覆うのが最善だ。土に含まれるバクテリアが分解を早める。次いで、砂、砂利、小石、礫と続く。

尺を超える石の場合はあらかじめ石を外して出来た穴に用を足し、事後に元のように石をはめ込んでおくとよい。土石がうまく利用できない時は落ち葉、枯れ草などで充分に覆うがよい。それも出来ない時は棒切れでも立てればよい。要するに、後から来た人に不愉快な思いをさせないことこそ野糞常習者の大切な心掛けである。

【空之巻】

 この巻では野糞の奥義について述べる。

野糞の深奥は「融通無碍・ゆうずうむげ」である。一切の拘りを捨てさり自由な境遇、無我の境地に身を置くことである。

人間には道徳、礼儀、常識など様々な束縛がある。だから座敷や台所へ糞をする人はいない。道路の真ん中や他人の屋敷も除かれる。しかし道路の脇の側溝や畑ともなると筆者にとってはしばしば絶好の排泄場所となる。

脱糞は便所で、という頑冥な固定観念を捨てなければ到底、野糞の名人上手にはなれない。身を山野の草木土石に同化させることが肝要である。

人は鳥獣蟲魚の仲間である。己を空しくすることが野糞上達の秘訣である。

野糞の場所を無闇に選んではいけない。何処へでも用が足せなければ達人とは言えない。工事現場などの人がいるところで糞をひるためには若干の小道具がいる。新聞紙でもベニヤ板でもダンボール箱でも何でもよい。

後ろに遮蔽物があって前だけ隠せばいいような場所を選び、新聞紙を両手でひろげて読むような格好でしゃがむ。顔の表情はいかにも新聞を読んでいるように装うことが秘訣である。ダンボール箱の場合はコの字型に囲う。いずれにせよ素早く事を済ますことが肝要である。

このときビニール袋とかセメント袋などがあれば大きい方だけ載せるとよい。後始末が楽である。

「何いってやんでぇい。いいかげんにしねぇかい。糞ったれ野郎っ」

読者諸兄の罵声が聞こえてくるようである。野糞に極意も秘伝もありはしない。ただ尻の穴のしまりが悪い情けない男の戯言である。

完。

 

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